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  • 花田

サリカ・ル・デルタの反乱 2

2 シマウマと由起子と定弘


 彼――あるいは彼女は、顔を垂直に上げて集中して両耳を立てた。 前方の音を拾う。次の瞬間は耳を翻し、左右、後方の音を聴く。頬から首筋にかけての毛が風を含んでいる。嗅覚の奥に何らかの刺激があった。なにかいる。いや、なにかではない。 敵だ。  群れの端にいたものだからよくわかった。数歩後ずさると、仲間の何頭かも同じように身を引いた。状況はよくない。ここが風上だ。尻から風が流れてきて、目の脇を通って目の前の空間へ吸い込まれていった。風下に自分たちの匂いが流れていくのを察した。風下に敵はいる。

 ライオンの群れは子どもを除いておよそ十五頭前後だ。うち三頭が雄、残りは雌で構成されている。狩りは主に雌が行う。チームを組んで大型動物などを狙い、群れを養っている。  風上に恐らくシマウマの群れがあった。  群れはここのところ獲物にありつけていない。単純に運が悪かったのか獲物に行動を読まれていたのかはわからないが、いずれにしろ今日は勝負の日だった。  群れの端の一頭が首を静かに立ててこちらを向いている。距離はあるが、こちらが見えているような素振りだ。見えているのかもしれない。だとしたら早々に動かねばならぬ。猶予はない。雌の一頭が動き出した。つられて二頭目、三頭目がシマウマの群れ全体を、距離を取って大きく囲うように、ゆるい弧を描いて小走りで進んだ。  その時だ。察知した。  群れの端にいた一頭だ。やはりこちらに気づいていた。  シマウマの群れが急激に大移動を始める。ライオンの雌たちもその刹那に走り出した。  逃してはならない。群れを養わねばならない。ここで捕えなければ。  一頭目に動き出していた雌が速度を上げて駆け、まっすぐにシマウマの群れに突っ込んだ。黒と白の群れがざわめくようにばらける。その中の一頭が脚をもつれさせ地面に転がった。雌はその一頭を見逃さなかった。  即座にその一頭の首筋に咬みついた雌は、牙を深く立ててそれの動きを封じた。残り二頭の雌も駆けつけてくる。暴れるシマウマの胴や脚に咬みつき押さえる。シマウマはしばらく抵抗して暴れていた。その間に群れは大きく遠ざかり、見放された一頭はやがてそれを察するかのように足掻きをやめて脱力した。  死んだ。  いや、今ぐらいなら生死の境をさまよっている。そう簡単に死ねるものではない。朦朧と息をし、喰われながら徐々に死んでいくのだ。  ライオンの一族がやってくる。仕留めた一頭をどう配分するか、そこでも諍いが起きるのが世の常だ。しかし、確かに一頭を得た。収穫はあった。一つの命が絶え、多くの命がつながれた。


***


 テレビのチャンネル1を観てしまうのは、こういう大自然のドキュメンタリー番組が多いせいでもある。若い頃は渋っていたがある時期から面倒になって受信料を払い始めた。それ自体は彼女には大した問題ではない。彼女には若き日に起業し成功したことによる金銭的余裕があり、年老いた今も充分にありがたい暮らしを送らせてもらえているという現実があった。  そのうえ彼女の娘は、警察官となった。自慢の娘だ。  いまだ夫がいないのはやや心配だが、娘は一人で充分生きていける稼ぎと、芯の強い気概を持っている。男などには負けない。  ――と、そうこうしているうちに番組が切り替わり、こじんまりとしたバラエティーが始まった。これは観なくてよい。彼女が観たいのは大自然のドキュメンタリー映像だ。 「かあさん? まだ起きてるの?」  階下から祥子の声がする。高峯祥子。警視庁捜査一課の警部補だ。  かあさんと呼ばれた彼女は、ベッドに座って膝に広げていたポテトチップス(のり塩味だ。祥子には寝る直前のポテトチップスなどはやめろと言われるのだが、これがなかなかどうしてやめられない)を脇に置き、指先を舐めてティッシュで拭いた。 「おかえりなさい」  彼女は少し声を張り、祥子に答えた。  階段を上ってくる足音がする。ああ、また顔を見に来てくれるのだ。どうしてこうも、優しい子に育ったのか。自分は若い頃、多忙にかまけてあまり祥子にかまってやれなかった。けれど祥子はすぐに家事を覚えたし、めいっぱい勉強して常によい成績を残した。中学か高校の頃に、祥子が言ったことがある。 「かあさんはかっこいいから」  だから私もかあさんのようになりたいの。  これ以上の言葉はなかった。どうしようもないものがこみ上げて、自分が未熟な母親であることなど気にも留めず、自分を慕い尊敬してくれる祥子を、彼女は逆に尊敬した。今も尊敬している。わが子を尊敬するというのは、何やら気恥ずかしいものではあるが。 「かあさん、また食べてる」  ノックしてドアを開けた祥子がため息をついた。スーツ姿。仕事帰りだ。とはいえ、大抵は仮眠を取ってすぐにまた仕事に出かける。張り込みやら、なんだか母には詳しくわからないが、刑事の仕事とはえてしてそういうものらしかった。 「とうさんは?」  祥子が振り返って真後ろのドアを見た。母の部屋の真向いの部屋。父・定弘の書斎兼寝床だ。彼が部屋から出てくることは稀だった。いい年をして、まるで引きこもりの若者なのである。 「いいのよ、どうせ好きなことをしているんだから」 「……独り言は?」 「たまに言ってるわ。でも、気にしてない」  定弘はここのところ、部屋にこもってぶつぶつと話すことが多い。もう一ヶ月になるだろうか。妙なもので、まるで誰かと会話をしているようなリズムの独り言なのだ。当初は「早めのボケがきたのね」などと祥子と共に冗談を言ったが、なにはともあれ、翌日には総合病院を受診した。  検査結果は全くの健康体で、心療内科に回された。薬を何種類か試しているが、いっこうによくならない。結局のところ、鯨の潮吹きや、アフリカのシマウマのたてがみが美しい写真の千ピースのパズルをやっている方が気持ちが落ち着くようだった。そういえば今日はシマウマが死んだ。いや、番組なので、今日死んだわけではないのであるが。 「とうさんは食事とってるの?」 「ああ、今日はなんだか自分で何か作っていたわ」 「へぇ、珍し」  そう、珍しく今日は定弘が台所に立って何かをこさえていた。  横目で見る限り、崩れた目玉焼きと、斜め切りにされたウインナーの焼いたやつ。目玉焼きにお好み焼きのようなマヨネーズのかけ方をしていたので注意しようかとも思ったが、自分は寝る前にポテトチップスなどを食べているし、まぁなんとも、口出しできるものでもなかった。この歳になれば食事ももはや自己責任だ。 「私また、すぐ行くから」  祥子が言った。今日は仮眠をとらずに職場へ戻るらしい。  そんなに忙しいのに、きちんと顔を見に帰ってくれる。優しい子だ。 「身体壊さないようにね」 「かあさんもね」  祥子が、脇に置いたポテトチップスを指さして言った。二人で笑った。そして祥子はおやすみを言ってドアを閉め、階段をとんとんと軽快に降りて行った。  さて、そろそろ私も寝るか。  歯を磨こうとベッドから降り、テレビを消す。そして部屋のドアを開けようとしたとき、廊下からドアの開く音がした。定弘だ。珍しい。 「定弘さん、さっき祥子が帰ってきてたのよ」  すかさず部屋から出て言うやいなや、全身に鳥肌が立った。  定弘はうなだれて立っていた。それも泣きながらだ。  そして彼の向こう、彼の部屋の中に、黒い人影がいた。 「定弘さ」  次の瞬間だった。  腹部にわずかな違和感が走り、その後それが激痛に変わっていった。ゆっくりと自分の腹を見た――包丁だ。うちの台所の、収納扉の右から二番目に入れてあるステンレスの包丁だ。 「……由起子……」  歪み始めた意識の端で、定弘が名前を呼んだ。  久しぶりに名を呼ばれたなと呑気に思いながら、床に崩れ落ちた。包丁が抜ける瞬間冷たい氷を押し当てられたような激痛が腹部を襲い、目の前に血が溢れた。  大変だ、これは自分の血なのか。  祥子。  かあさんは死ぬかもしれない。 「由起子、俺は……」  定弘が何か言っている。 「もうお前を愛せない」  何か言ったのか。定弘は。 「俺は」  定弘。祥子。  祥子。 「俺はデルタの反乱を支持する」  途端に、頭上から温かい雨のようなものが降ってきた。それが定弘の血であることに気づくのに随分時間がかかったように思う。気づくころには、意識が遠のいていた。胴体に何かが落ちてきた。崩れて倒れてきた定弘だった。視界の端に、包丁を握った定弘の赤い手があった。  祥子、と思った。  祥子、どうか悲しまないで。  祥子だけには。  死んでほしくないと、最期に思った。


2019.09.21

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