まず認識したのは季節だ。 石への日光の照り方からして夏なのは確実で、そうだ、石の階段を上っているのだった。 遅れて耳の奥から蝉の声がし始める。続いて暑さを含む空気が茫洋と感じられ、石の階段を上りきると、神社だった。 鳥居の奥に中ぐらいの拝殿があり、賽銭箱の前に誰かが座っている。つばの広い麦わら帽をかぶり、後ろで小さく結んだ黒髪と、顔は鼻から下だけしか見えなかったが、俺はそれが誰なのか知っていた。 「雪森」 名前を呼ぶと、彼は顔を上げた。 次に気付くと彼の周りには何人かの子どもがいて、同じく俺の方をそれぞれが振り返ったが、その雪森と子どもたちの光景があまりに自然だったので、俺は雪森だけに意識をとられた。 ああそうか。今日寝る前に、お前の写真を見たから。 「冷静になると目が覚めるよ」 雪森が心を読んで言った。口元は写真と同じで、笑っている。 ふいに、わっと子どもたちがばらけていった。こちらに走ってきて、俺を通りすぎ、視界から消えた。そこでようやく子どものいたことを意識した。 「さっきの子たちは?」 「さぁ。誰も死んだ理由を覚えてないんだ」 雪森の目元に麦わらの影が落ちている。顎や頬の一部が日に当たって白く光っていた。写真の雪森も、人一倍、色白で肌が目立っていた。 「彼ら、ハーフなんだって」 ハーフ。 俺は口の中で復唱し、安斎のことを少し思った。 「帯広生まれか」 口があてずっぽうに動いた。 すると意外にも、そうだよ、と雪森は返す。 「本当は全員赤ん坊なんだよ。でもそれじゃ走り回れないから、想像で成長している」 俺は石畳を進んだ。太陽はほとんど真上にあって影が少なく、辺りいちめん明るかった。 雪森がまた少しうつむき、鼻と口しか見えなくなる。 「俺に会いたくなったんだね」 断定的に彼はつぶやく。そうだろうか、と俺は思った。会いたくて写真を見たわけではなく、本棚の整理をしていたらほとんど使っていないアルバムが出てきて、彼を偶然発見したのだ。彼の写真は一枚しか持っていない。彼の遠い親戚の男性の、名前はすぐに出てこないが気の優しそうな人で、遺品として残っていた雪森の写真を同僚たちで分けるよう勧めてくれた人でもあった。 俺が持っているのは夏に海の浅瀬を裸足で歩いている雪森と、その同僚たちの写真だ。何人か写っているが俺は雪森しか顔を知らなかった。彼は麦わら帽をかぶり、半端に伸びた髪を後ろで一つに結っていた。 「一周忌のあたりから煙草変えたよね」 唐突に雪森が言った。 「ああ、墓に供えるつもりで買ったんだが」 「行ったらもう別の誰かが供えてた」 「そうだ。それで俺がもらった」 「禁煙しなよ」 「今の事件が終わったらする」 「そう。終わらなくても、しなよ」 雪森が顔を上げて、ふっと笑った。 今の事件、とはなんだったか、少し考えたが思い出せなかった。 「ジュリアナさんとは、どう」 ちゃんとつかまえないと、そのうち離れていくよ。雪森がうつむいて足元の石を拾った。何の変哲もない丸い石だ。川を流れてきたかのように丸い。 石を、彼は自分の隣に置いた。そして立ち上がり、拝殿の木の階段を二つ下りて、俺の前に立った。 雪森は俺より少しだけ背が低かった。 「安斎君は」 俺に少し似てるかもね。 麦わらの影の中の瞳が、うつくしい湖のように透き通っている。 お前が、安斎と? そうだよ。 「鬼は鬼の領域を出ない。俺もそう思ってる」 「……鬼とヒトは一緒に生きるべきじゃないって、配属した頃に言ってたな。理由は聞いてないが」 昔何か嫌なことでもあったのかもしれない。俺はそう答えながら、雪森の奥の拝殿を見ていた。拝殿は少し朽ちていた。 「生きていれば」 雪森が言い、俺の意識も雪森に戻る。 「生きていれば、いくらでも進んだり止まったりできる。後ずさりも」 できる。 雪森の目は大きく見開かれ、凪いだ湖の奥に爛々と何かの光を灯している。光は歪んだり揺れたりしながら、その動きによって俺の意識を探っているように見えた。 お前とは、一年は一緒にいた気がする。 急にそう思って、彼に告げた。口が動いている感覚はなかった。 湖の光が収束し、雪森は目を細めて笑った。 実際は一週間だったね。捜査本部が移ったのが2月1日。 「そして終わったのは2月8日」 雪森の口がはっきりと動いた。その瞬間、わっと背後から子どもたちが帰ってきた。 ひこうせん! 誰かが叫んだ。 「飛行船」 雪森が真上より少し斜めを見上げた。 つられて仰ぐと、白いものが青空の中を小さく移動していくのが見えた。 ――沢崎。 雪森が呼んだ。 「俺は2月8日のあとも、ずっと一緒にいるじゃないか」 視線を前に戻すと、雪森は正面から消え、いつの間にか俺の真横の位置に、すれ違いざまのような向きで立っている。 だめだな、沢崎は霊感がないから。 雪森が横顔で言った。笑っているように見えた。 「そろそろ飛行船が行く」 雪森が言うと、子どもたちが口々に、行く、行く、と言った。そして子どもたちから順々に、鳥居の方へ駈け出して去って行った。 そこで俺はふいに焦燥感に襲われた。 「お前、またここに来るか」 意識しないで雪森の腕をつかんだ。 つかんでいるのに、つかんでいる感覚がない。 「沢崎」 雪森がゆっくりと顔をこちらに向ける。凪いだ湖が俺を見ている。湖に浮かんでいる光は小さいのに、なぜか少し眩しい。 「俺はいつでもここにいるよ」 沢崎が来たい時に来ればいいんだ。 にっこりと、はっきりと雪森は笑んだ。どこかで見たことがあると思った。いつでも見てきたとも思った。たったの一週間を一年に感じるほどに、雪森の笑顔には不可視の価値が何層にも重なっているように見えた。 突風が吹いた。 雪森の麦わら帽が一瞬変形して揺らぎ、俺は青空に飛んでいく麦わら帽だけを見た。飛行船の白い点より低い位置を、それは飛んで行った。俺は雪森に視線を戻せなかった。 俺は夏の、帽子をかぶっていない雪森を知らないのだ。
目の前には見慣れた天井があった。 カーテンの隙間から淡く日光が漏れている。 一瞬視界の焦点が揺らぎ、目尻を体温が流れていった。 (……) ゆっくりと起き上がった後は、普通に朝食を食べ、身支度をした。今まで脳の内側で見ていたものは少しずつ意識の奥に遠ざかっていき、玄関を出る頃には忘れていた。 マンションを出ると、晴れていた。空から何かの通る音がして、見上げると、珍しく飛行船だった。印象よりも低い位置を飛んでいる。 何かを思い出しそうになった。 笑っている口元。 「――」 思い出すのをやめた。 そして、いつでも思い出せることを知っていた。 歩道を歩き始めると朝の空気が気持ち良かった。 飛行船とは逆の方向だったが、眩しい太陽の方角だった。
2017.12.25
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